慈雨 - 3/4

 ***

 鉄の扉でできたドアを開けて、周囲を見渡す。雨で視界が悪いが、よく目をこらすと、正面に人影らしきものが立っているのが見て取れた。
 その後ろ姿に、テンマは安堵する。 
「……ここにいたんだね」
 声をかけると、ゆっくりとヨハンがこちらを振り向いた。特段驚いた様子はなく、静かにこちらを見つめている。テンマと同じく、傘を差しいないが、それをさして気にする様子はなかった。
「灯台もと暗し、とはよく言ったものだ」
 テンマは苦笑した。
 二人が立っている場所は、暮らしているアパートの屋上だった。
 冷静になってみれば、なんのことはなかった。
 ヨハンは今、所持金をさほど多くは持っていない。遠くに行こうにも、手段が無いはずだ。
 ――最も、武器などで運転手を無理矢理脅すなら別だが。それを所持していないのは、テンマもよく知っている。
 だからもしかすると家の近くを離れて居ないのではないか、と考えついたのだ。
 正直に言って、賭けに等しかった。ヨハンがいない可能性の方が、大いにあった。
 だが今、彼はこうしてテンマの目の前に立っている。ルーエンハイムで対峙した、あのときのように。
(だけど、同じじゃない)
 今、二人は銃を手にしていない。それが決定的にあのときと違っていた。
 もう、テンマはヨハンに、ヨハンは別の誰かに銃口を向ける必要は無くなったのだから。
「うちに帰ろう、ヨハン」
 テンマはそう言って、一歩踏み出した。足元の水たまりが、バシャリと音を立てた。
「……だめだよ」
 ヨハンはそう言うと、目を伏せる。
「あのうちは、先生の家だから」
「……君の家でもあるだろう」
 テンマの言葉に、ヨハンは口元だけでふっと笑うと、まるで逃げるかのように、一歩後ろへと下がる。そして、続ける。
「……もういいんですよ」
「え?」
「あなたは、自分の人生を過ごすべきだ」
「何を」
「先生、周りの人に僕のこと色々言われているんでしょう? 最近、様子がおかしかったですし」
 ヨハンの言葉に、テンマの思考は一瞬停止した。だがすぐに、否定の言葉を口にする。
「……そんなことはないよ」
「相変わらず嘘が下手ですね。知ってましたか? 先生が嘘をつくとき、視線を右下にやる癖があるんですよ」
 ヨハンは自分の瞳を指さしながらそう言った。テンマは思わず狼狽してしまう。
「えっ!?」
 テンマの反応を見て、ヨハンは諦めたような、ほっとしたような表情で微笑んだ。
「……やっぱり、言われてるんですね」
 ――それはひどく、悲しい笑顔だった
(しまった)
 どうやらカマをかけられたらしい。テンマは自己嫌悪に陥った。
「でももう大丈夫、僕はこの通り、出て行きますから」
「……出て行くって、どこに行こうって言うんだ。君は警察や政府にも、居場所をマークされているはずだ」
「さあ。なるようになりますよ、きっと。だって僕は結局、あなたとは違う世界の住人ですから」
「……そんなことない」
 テンマは掠れた声で言葉を絞り出した。
 本当は、頭の隅では分かっている。ヨハンがその気になれば、彼の言うとおりどこでも生きていけるだろう。
 それがたとえ、この世界の暗がりへと戻ることになったとしても。
「君はもう、あの頃とは違うはずだ」
 ヨハンをまっすぐに見据え、そう告げた。青い瞳が、ほんの少し揺らいだように見えた。
「実際、私は君と一緒に過ごして、命の危険を感じたことはなかった。周囲の人だってそうだ。なにか危害を加えるなら、いつでもできただろう?」
「確かにそうですね。だけど、それ自体が演技だったとしたら?」
「……それこそ私は、信じない」
「先生、本当にお人好しですね」
「……知ってるよ」
 呆れたようなヨハンの声音に、テンマは苦笑する。
「だけどやっぱり、それじゃいけないんだ」
 そう呟いたヨハンはいつの間にか、屋上の縁の上に立っている。その背後には、暗闇以外に何も無い。激しい雨が街の明かりを遮って、世界に2人だけしかいないような感覚に陥るほどに。
「……ヨハン、そこは」
 危ないから、というテンマの忠告をまるで聞いていない様子で、彼は捲し立てる。
「確かに、今は良いかもしれない。だけど先生、1年後は? 5年後は? 本当に僕を見限らない自信がありますか?」
「……それは正直、わからないよ」
 でも、とテンマは続ける。
「――だけど今、この瞬間の私は、君を信じたいと心から思ってる」
 一緒に過ごしたうち、他愛のない会話を随分とした。時には、ヨハンはこういうとき、こんな表情をするのだ、と驚いたこともあった。
 テンマにはその全てが彼の演技だったとは、到底思えない。
 たとえ彼自身が否定したとしても、今ここにいるヨハンのことを信じたいのだ。
「……先生は、優しいな」
 ヨハンはテンマに柔らかい笑みを向ける。だが次の瞬間には、その表情は消えていた。そこには、目の前のものを映し出すだけの、暗い色をした瞳があるだけだ。
「だけど、それもいつか無くなるかもしれないなら」
 ヨハンは自らの空っぽの手の平を見つめ、やがて天を仰いだ。
 それはまるで、神にでも祈っているかのようだった。
「僕はそんなもの、最初からいらないんだ」
 そう言うと、ただぽっかりと空いた虚ろな暗闇へと、ゆっくりと倒れていく。
 その瞳は、落ち行く人間とは思えないほど、ひどく穏やかだった。
 
 ***
 
「ダメだ!」
 テンマは絶叫するとヨハンへと手を伸ばす。
 今まさに落ちていこうとする腕を両手で強く引き、抱き留める形で屋上の床に背中から着地した。それと同時に音を立てて盛大に水しぶきが上がる
 かなり強い力で背中をぶつけたため、一瞬痛みで息が止まり、その場でげほげほと何回か盛大に咳き込む羽目になった。
 ――正直、間に合わないと思った。
「でも、生きてる……」
 この状況に心底ほっとする。テンマはヨハンを抱えながら、よろよろと上体を起こした。
 ヨハンはというと、何が起きたのか分かっていない様子で、テンマの腕の中で呆けたような表情をしていた。
「先生」
「……なんだい」
「どうして?」
「……あのねえ」
 全く、呆れてしまう。そんなことは、一つしかない。
「君に死んで欲しくなかったからに決まってるだろ」
「……」
 ヨハンは俯いて、なにも答えない。
 その代わりに、脱力したまま肩口に自らの頭をもたせ掛けてくる。寒さのせいか、それ以外の何かのせいか。どちらなのかは分からないが、ヨハンの身体はわずかに震えていた。
 テンマは何も言わず、小さい子どもにするかのように背中をさすってやる。
 しばらくそうしていると、ヨハンが顔を上げて、ぽつりと呟いた。
「ずっと昔から、夢を見るんだ」
「……夢?」
「三匹のカエルの家で、アンナと母さんと、僕の3人で暮らす夢」
 ヨハンはそう言うと、ほんの少しだけ口元を綻ばせる。
「僕はもう女の子の格好はしていなくて、――父さんは相変わらず居ないんだけど、2人がいればそれで良くて。怖い大人たちも現れないし、母さんは出かけるときもしっかりと握ってくれて、それが僕は嬉しいんだ」
「……」
「でも、結局全部夢だから。目覚めたら何も無くて、勝手に落ち込んだ気になるんだけど。子どもっぽくて、馬鹿みたいでしょう?」
「……そんなことないよ」
「どうかな」
 ヨハンは悲しげに笑った。
「……先生に一緒に暮らそうって言われたとき、本当はすごく嬉しかった」
 ヨハンは空っぽの手を、何回かゆっくりと握りしめる。何かを確かめているかのような、そんな仕草だった。
「あんなことをしたのに、先生は僕を許してくれるんだって。 ……どうしてそう思ってくれたのかは、僕には考えても分からなかったけど」
 ヨハンは自嘲気味に笑った。
「それに、いつも怖かった」   
「……怖い?」
「……今日は帰ってきてくれたけど、明日は帰ってこないかもしれない。一緒にまた出かけるって言ってくれたけど、明日には置いて行かれるかもしれない、って。ずっと心のどこかで思ってた」
 テンマは、自分の帰りをずっと待っていた時のヨハンのことを思い出す。あのときの彼は平気そうな顔をしていた。 だが、内心は不安でたまらなかったのだ。テンマは自分自信の不甲斐なさを呪った。なぜもっと早くに気づいてやることができなかったのだろう。
「……私は、君を置いていったりしないよ」
「母さんも、同じことを言ってた」
 ヨハンの声音は、珍しく震えていた。
「でも結局、いなくなっちゃった」
 ヨハンはそう言うと、ほんの一瞬、泣き出しそうな表情をした。
 ――実際、泣いているのかと思った。だがその瞳に涙の気配はなく、どこまでも空っぽな色をしていた。泣いているように見えたのは、降りしきる雨が頬を濡らしていたからだ。
 テンマはヨハンの肩口にそっと触れる。こうやっていないと、今目の前にいるこの青年が、目の前から消えてしまいそうな気がしたからだ。
「……先生が僕を嫌にならないように、色々やってみたけど。――結局うまくできなかったな」
 ヨハンの言葉を、テンマはすぐさま否定する。
「そんなことない。君は病院にだって真面目に通っていたし、家事もしてくれてた。……植物の世話だって、ちゃんとできていたじゃないか」
「だからそれは全部、先生に嫌われたくなかったから。植物も先生が飾ってみたら、って言ったから世話していただけだよ。……枯らしてしまったけどね」
 ヨハンは気まずそうに言った。
「……本当にそうかな。私の言いつけをただ守っているだけなら、植物のささいな変化に気がつかなかったはずだ」
 テンマの言葉に、ヨハンは目を見開く。
「確かに、葉は枯れてしまったかもしれない。だけど根っこが無事なら、ちゃんと処置をしてやればきっとまた育つ。またきっと、生きていける」
 テンマの言葉に、ヨハンは俯いた。だがテンマははそれを許さず、彼の頬を両手で支えて、しっかりと視線を合わせてやる。
「……君はもう、奪うばかりだったあの頃とは違うんだ。だからあまり、悲しいことを言わないでくれ、ヨハン」
「……」 
 青い瞳が、雨が落ちた水たまりの水面のように、ゆらゆらと揺れている。
 ヨハンはテンマを見つめたまま、何も答えなかった。
 その代わりに、自らに触れているテンマの手に、自分の手を重ねて、ぎゅっと握りしめてくる。
(――充分だ、これで)
 
「うちに帰ろう、ヨハン」

 ***
 
 テンマが部屋のドアをノックすると、「どうぞ」と静かな声が帰ってきた。
 ドアを開けると、ちょうどヨハンが窓際で観葉植物に霧吹きを使って水をやっているところだった。テンマはヨハンに近づいて、そっと植物を覗き込む。
「……経過は順調そうかな?」
「はい。おかげさまで、とても良いです」
 ヨハンは植物に視線をやったまま、そう答えた。 この植物を購入した店で相談をしたところ、どうも原因は気温差によるものだったらしい。
 なんでも、昼間は日光をたっぷり浴びせるために、窓際においても良い。しかし夜になると気温が下がってしまうので、夜はなるべく気温が下がらない場所――それこそリビングだとか、そういう場所に置いておく方が良いのだという。
 その指示に従ったおかげか、今ではしんなりとして艶を失いかけていた葉は嘘のように瑞々しくなり、項垂れていた幹も、しゃっきりと上を向いている。
「……やっぱり、聞いてみるもんだろう?」
「ええ、本当に。……根っこが無事で良かったです」
 ヨハンはそう言うと、どこかほっとしたような表情を見せた。
「慣れてきたら、他の植物を育ててみても面白いかもね」
「他の植物?」
「うん。その方が賑やかになって良いかなって
。……もちろん、君の好きなようにしたら良い」
 テンマの言葉に、ヨハンは口元に指をやる。そしてしばらく逡巡するような素振りを見せたあと、口を開いた。
「……そうですね。それも良いかもしれません。だけど今は――今の僕には、これだけで充分です」
「……そうか、それなら良いんだ」
 ヨハンの回答に、テンマは満足そうに微笑んだ。「ところでヨハン。話が変わるんだけど、これから買い物に付き合ってくれないかな」
「買い物?」
 ヨハンがきょとんした表情で聞き返す。
「ああ。今日は近くの店で安売りしていてね。色々買い足しておきたいんだ」
「ああ、なるほど」
「まあ、世の奥様方も殺到しているだろうから、争奪戦には負けちゃうかもしれないけどね」
「……先生、頑張らないとですね」
「うーん……ああなったときの女性は、気迫が違うからなあ。なるべく頑張るつもりだけども……」
「僕はもみくちゃになって帰ってくる先生、面白くて好きですよ」
「……君ねえ」
 テンマは苦笑する。ヨハンはそれを見て青い目を細め、いたずらっぽく笑った。
 窓ガラスからこぼれ落ちた朝日は、ヨハンの金色の髪をきらきらと照らしている。
 見慣れたはずのその光景が、今日はとても美しいものに思えた。

 end. 

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