***
「……はあ」
病院の中庭のベンチで、片手に食べかけのサンドイッチを持ちながらテンマはため息を着いた。背もたれに体重を預けながら顔を上げると、木々の隙間からこぼれ落ちる漏れ日が心地よい。
(……やっぱり、早めに連絡をしておくべきだったよなあ)
彼がウジウジと思い悩んでいる原因はもちろん、自分が起こした不手際に関することだった。
(自分から言い出したことなのに……)
テンマはサンドイッチを一口頬張った。
『僕はもう、先生が帰ってこないのかと思いました』
ヨハンの言葉を、テンマは頭の中で反芻する。
彼の境遇を考えると、あんなことを言わせてしまった自分がひどく情けない。
ヨハンは口にこそ出さなかったが、自分の母親のことを思い出したはずだ。ひどく失望もしただろう。
それでもテンマに「おかえり」というためだけにあの場に座って待っていた。
テンマはヨハンを置いてどこかにいく気など毛頭なかった。しかし万が一、自分が帰らなかったとしても、きっと彼はずっとそこで待っていただろう。妹や母の帰りをずっと待っていた小さな頃のように。
「……埒があかないな」
悶々と考えていても、仕方が無い。やはりもう一度、ヨハンとは話をした方がいいだろう。
きっとこれからも暮らしていくにあたって必要なことだ。
テンマは少し伸びをして立ち上がりかけたそのとき、ふと声をかけられた。
「……あの、あなたがDr.テンマですか?」
「え?」
声のした方を振り向くと白衣を着た男性がこちらを見ていた。首からIDを下げていたし、風貌からして病院の医療スタッフのようだった。
「そうですが……何か?」
「いきなり声をかけてすみません。……あなたが書いた論文を読ませていただいたことがあって。脳血管の攣縮について研究されていましたよね」
「はあ、確かに」
「あの論文、大変素晴らしかったです」
「……恐縮です」
テンマは思わず、ぺこりと頭を下げてしまう。
「噂通り、謙虚な人なんですね」
「いや、そんなことないですよ」
テンマは苦笑した。これは性格がどうこう、というわけではなくただの癖だ。
そんなテンマの内心など知らず、男はなにやら感心して何度か頷いている。これ以上話しても何やら誤解を生みそうなので、さっさと切り上げて欲しい。
そんな思いとは裏腹に、彼は一向に立ち去る様子はない。「あの、他にも何か?」
「……ばれましたか」
男は決まりが悪そうに頬をポリポリと掻いた。
「あなたにお会いできることがあれば、聞いてみたかったことがあります」
「なんです?」
「他のスタッフから、あなたがあのヨハンという青年を引き取った、と伺っています」
一瞬、心臓が跳ねる。――ヨハンについて、ひた隠しにしているというわけではない。しかしこうやって面と向かって、赤の他人から尋ねられると少し身構えてしまう。
「あなたは、何故そこまでするんですか?」
「……」
「……私も病院から渡された資料の範囲でしか知りませんが、彼は犯罪者です。身元に関しても曖昧なようですし、こうして司法が放っておくのが不思議なくらいですよ」
テンマは男の主張を黙って聞いていた。確かに、彼の言っていることは事実だ。ただ彼が目にした資料には、ヨハンの両親や旧東ドイツの『実験』に関することは一切書かれていないはずだ。
テンマは唇を噛みしめる。
「それに比べて、あなたは随分と才能のある医師でしょう。彼と関わらなければ、もっと素晴らしい研究を世に出せたかもしれない。それによって、救われる人間も大勢いたはずです」
「……それは、私が納得して選んだ道ですから」
なんだか、指の先からスッと体温が下がっていくような、妙な感覚がする。
男は眉根を寄せて、続けた。
「Dr.テンマ、相手は殺人犯ですよ」
テンマは何も答えずに、握りしめた掌に視線を落とす。こうでもしていないと、目の前の男の胸ぐらを引っ掴んでしまいそうだった。
そんな彼の態度を見て、男はため息をつく。
「私は、あなたの為に忠告しているんですがね」
――先ほど彼はテンマを謙虚だと評したが、当の本人の態度はこれである。
「確かに、今は大人しくしているでしょう。しかしいつその本性を現すか分かりませんよ」
「……それでも、あなたには関係ないことだ」
「確かにそうでしょう。『あなただけが被害に遭う』のであれば、ですが」
「彼には、そんなことはさせない」
「そうだといいのですが」
男は肩をすくめた。
テンマは落としていた視線を上げ、男をまっすぐと見つめ直す。
「……万が一、ヨハンが私以外の人間を害するようなことがあれば」
「……あれば?」
「そのときは私が責任を持って、ヨハンを殺します」
テンマの言葉に、男は驚いたような表情を見せる。
「それが、あなたの答えですか」
「ええ」
「……医者にはあるまじき行為だ」
「何とでもいえばいい」
「意外とエゴイストですね、あなた」
「……その言葉、そっくりお返ししますよ」
それを聞いた男は苦笑すると、ゆっくりとベンチから立ち上がった。
「お休みのところ時間をとらせてしまい、失礼しました」
彼は右手を差し出してきたが、テンマはそれに応じない。その態度を男は気にする様子はなかった。
「彼との共同生活がうまくいくよう祈っていますよ。――私たちのためにもね」
それだけ言うと、男は「では」と病棟のある方向へと去って行った。
その後ろ姿が完全に見えなくなったことを確認したところで、テンマの肩からはドッと力が抜け落ちる。
「なんなんだ、いったい」
話していたのはほんの少しの時間だったはずなのに、徹夜でもしたような疲労感だけが残った。
テンマはため息をつきながら、傍らのランチボックスに避難させていたサンドイッチを手に取り、一口かじる。
「う……」
蓋を開けっぱなしにしていたせいか、大分パサついた食感になってしまっている。
バタバタしていたとはいえ、野菜の一切れくらい入れておくべきだった。しかし、今から飲み物を買いに行く気力もない。
「……とりあえず、今日はさっさと帰ろう」
テンマはそう決意すると、咀嚼したパンをごくりと飲み込んだ。
***
雨が降っている。
水をたっぷりと吸い込んだ服は、じっとり身体にまとわりついていた。歩みを進める度に、靴の中に跳ねた水が入り込んで気持ちが悪い。
顔を上げれば、おとぎ話に出てくるような美しい街並みも、今は濃い灰色の雲が空を覆っていて、やけに煤けて見えた。
(……そもそも、私はどこに行こうとしていたんだっけ)
鼓膜に響く雨音はひどく耳障りで、思考が途切れ途切れになってしまう。世界全体を雨雲が包み込んでいるような、おかしな錯覚に陥りそうなほどに。
(――そんなわけはない)
思考をリセットするかのように、頭を振った。 ふと、建物のガラスに映る自分の姿が目に入る。着古したコートに、伸び放題な髪や髭。顔には傷の手当をした痕もあり、一見すると浮浪者に間違われても不思議ではない出で立ちだった。
(ああ、そうだ)
何故忘れていたのだろう。
「……ヨハン」
彼を探し出さなくては。探し出して、そして。
「私が、殺さなくては」
譫言のようにそう呟いて、ふらふらと再び歩き始める。服の下に隠している拳銃の感触を確かめながら。
しばらく歩いていると、雨の音に混じって、タン、タンと乾いた音が複数回聞こえた。
――この音は、よく知っている。
「銃声だ」
そう呟いた口腔内は、緊張でひどく乾燥していた。そして脱兎のごとく、音がした方角へと走りだす。自分を除いて、こんな大雨の中を歩くような人間はいなかった。それだけでなく、街の明かりは一つとしてついていない。
(みんな、死んでしまったみたいだ)
嫌な考えが頭をよぎる。しかしそれをすぐに振り払って、再び走り出した。冷たい空気を吸った肺が、ズキズキと痛み出す。3つほど交差点をつっきり、左に曲がった。
たどり着いた袋小路の真ん中に、ヨハンは突っ立っていた。手には銃を持っており、傍らには人間が横たわっている。
その身体からあふれ出たのであろう血の色が、水たまりにじわりと広がっている。
跳ねた水の音でこちらに気づいたのだろうか。ヨハンがゆっくりとこちらに顔を向けた。
「ああ、ようやく来てくれたんですね、Dr.テンマ」
待ちくたびれました、とヨハンは青い目を細めた。彼自身もずぶ濡れになっているというのに、それを感じさせない表情だった。
「……また、人を殺したのか」
「はい、それが何か?」
「こんなことは、もうやめてくれ」
その言葉に、ヨハンは不思議そうに首を傾げる。「どうして?」
「……――人として、間違っているからだ」
「……おかしな先生」
ヨハンは哀れむような視線でこちらを見ている。「私は、おかしなことなんて言っていない」
「本当にそう思うの?」
「……ああ」
「先生は、僕のことを殺しにきたのに?」
ヨハンはそう言うと、持っていた拳銃の撃鉄を引く。そして自らの側頭部へと、銃口を持っていった。
「……とんだ自己矛盾ですね、Dr.テンマ」
そう言って嗤うと、ゆっくりと引き金に指をかけ、そして――
「……やめろ!」
テンマは叫び声をあげ、飛び起きた。それと同時に、胸の辺りに置いていた本がバサリと音を立てて落ちる。
目の前には、いきなり腕を捕まれて驚いた表情のヨハンがいた。床にはヨハンが持っていたであろうマグカップが転がり、入っていた飲み物も飛び散っていた。
「……あ」
そこでようやく、冷静になって腕を離す。汗で着ているシャツがじっとりと濡れていた。
「す、すまない。怪我とかしていないかい?」
「僕はなんとも。それよりも先生の方こそ、大丈夫ですか?」
「……ああ」
「すごくうなされていました」
「どうも変な夢を見ていたみたいだ。疲れているのかな」
「そうかもしれませんね」
そう言いつつ、ヨハンは何事もなかったかのような涼しい顔をして、床を拭いていた。そのついでにテンマが落とした本を拾い上げて、差し出しす。
「この本、結構前から読んでますよね」
「うん。なかなか読み進められなくてね」
「そんなに難しいんですか?」
ヨハンは興味深そうな視線を本へ向けている。
「……そういう訳じゃないんだけど」
確かに専門的な内容ではあるが、テンマからすればさほど難解ではない。それだというのに、いつもペラペラとページを捲っては、ただ文章を目で追っているだけ。要するに頭に入ってこないのだ。
(やっぱり、色々と考え事をしているせいだろうな)
ふと、あの男の言葉が頭をよぎる。
『あなたは、何故そこまでするんですか?』
あの後ずっと考え続けても、明確な答えは出せなかった。浮かび上がる思考はどれも合っているようで、どれもが違っているような気がした。
「先生」
「え?」
テンマの思考を、ヨハンの静かな声が遮った。見れば、彼は自室のドアに手をかけて、こちらを振り返っている。
「また、眉間の皺がすごいことになってます」
「ああ、ごめん」
「今日はまだ、お風呂にも入ってないでしょう。早く済ませてしまった方がいいかと」
「……そうするよ」
テンマの言葉にヨハンは頷いて自室のドアを開けた。と同時に、「そういえば」と何かを思い出したかのように、再びこちらに顔を向ける。
「先生に、ひとつ相談が」
「急に改まって、どうかした?」
「いえ。たいしたことでは。……この間、先生からもらった植物があるでしょう。あれが、最近少し元気がなくて」
「そうなのかい?」
「はい。ちゃんと世話はしているんですけど。原因がよく分からなくて」
「なるほど……季節の変わり目だし、色々あるのかもなあ。今度買った店で色々聞いてみようか」
ヨハンは何故か少し驚いたような顔をしたが、「そうですね」と小さく呟いた。
(なんだ、今の)
ヨハンの表情の意図が読み取れず、テンマは首を内心首をかしげた。
「……先生」
「ん?」
「僕は」
ヨハンが言いかけたところで、ポケットに突っ込んでいた携帯がけたたましく鳴った。
慌てて確認すると、勤めている病院からだった。急患だろうか。
「……すまないヨハン。また後で」
「ええ、また後で」
ヨハンはやんわりと微笑み、自分の部屋へと消えていった。
静かな湖面を思わせるような、いつも通りの笑顔。
一瞬、ざらりとした不安な感覚が胸をよぎったが、あえて気づかないふりをした。
それが間違いだったのかもしれない。
***
診察を終えた患者のカルテにペンを走らせながら、テンマは深く息を吐いた。
「……はあ」
結局、あの日はヨハンとしっかりと話をすることができなかった。それ以降も、もズルズルと話を切り出すことができずに、1週間以上が経過してしている。我ながら意気地が無い。
例の男性スタッフとは、何度か顔を合わせる機会があった。
また何か言ってくるのでは、と身構えていたが、特にそんなことも無かった。事務的な会話は何度か交わしたが、それだけだ。
(こっちは散々悩んだっていうのに、勝手なもんだ)
結局、あのときの質問への明確な答えは出せていない。そもそも、向こうはそんな質問をしたこと自体、忘れているのかもしれない。
――こちらもさっさと忘れた方が気が楽になるのだろう。分かってはいるが、テンマはどうも、そういうことを無視するのが苦手だった。
(……損な性格だな)
視線を窓の外にやると、外はひどい雨だった。今朝は小雨がパラついている程度だったが、今では黒い雲が空を包みこみ、バケツをひっくり返したような勢いで雨が降り続けている。
「……雨か」
病院の上層部からも、仕事が終わり次第さっさと帰宅するか、病院に泊まるかのいずれかにしろ、というお達しが出たほどだ。もちろんテンマは前者を選んだ。が、こういう天気の日は色々な事を思い出し、つい物思いにふけってしまう。
(……そういえば、この間見た夢も雨が降っていたな)
雨の中街を歩き続ける夢。ひどく嫌な夢だった、という感覚だけがある。
おそらく、またあのような夢を見るだろう。
雨に混じる血と硝煙の匂い。何かある度に、ずっと思い出すのだ。
今までも、きっとこれからも。
テンマが電車やタクシーやらを駆使してようやく帰宅すると、玄関の鍵が開いていた。
「あれ?」
この辺りは治安もよく、空き巣などの被害なども聞かないが、ヨハンにしては不用心にも程がある。
「……どうしたんだろう」
後ろ手で鍵を閉めながら、部屋に入ると、室内は真っ暗だった。静まりかえっており、雨の音がやたら大きく聞こえた。
いつもであれば、この時間はリビングに明かりは付いている。それにヨハンは自室に籠もっていたとしても、テンマの帰宅と同時にひょっこりと顔を出すのだ。
(……もしかして、体調でも悪くて部屋に籠もってるんだろうか)
そのせいで、いつもより注意散漫になってしまったのかもしれない。
テンマは雨で湿った靴下を脱ぎつつ、ヨハンの自室のドアを数回ノックした。
「ヨハン、大丈夫かい?」
返事はなかった。少しの間、ドアの前で返事を待ったが、やはり声は帰ってこない。
「すまないが、邪魔するよ」
緊張しながら、ドアノブに手をかけた。
この家の個室には、鍵はついていない。そのため、ドアは何の抵抗もなく開く。
ヨハンは、そこにいなかった。
リビングと同様に、静まりかえった室内がそこにあるだけだった。
「な……」
慌てて携帯の履歴を確認する。そこにはもちろん、ヨハンからの着信はない。何かがおかしい。直感的にそう思った。
混乱しながら室内に入り、せめて書き置きでもないかとヨハンが使っている机へと向かう。
そこにはぽつんと、ヨハンに渡していた鍵と携帯電話が置いてあった。
どくん、と心臓が大きく跳ねる。
「どうして」
思わず口を出た言葉は、ひどく震え、掠れていた。
「ヨハン」
名前を呼ぶも、その名前の持ち主はもう、ここにはいない。雨の音が耳障りに、ただ響くだけだ
「……――くそっ!」
叫ぶのと同時に、踵を返した。
玄関でさっきまで履いていた革靴を引っかけ、外へと飛び出した。廊下を走り出し、階段を駆け降りる。傘を持ち出す余裕はなかった。
(……探さなくちゃ)
ヨハンがいなくなった理由はまだ分からない。
だが探し出して、ヨハンと話をしなくては。
――もし彼がこの街から離れ、遠くに行っていたら、とは考えなかった。
そうであれば、またどこまでも追いかけるだけだ。それこそ、あの頃のように。
肩で大きく息をして、テンマは立ち止まった。
家の周りは、随分と探した。駅までの道はもちろん、細い路地や、よく買い物に行く雑貨店など、とにかく思いついた場所はしらみつぶしだ。
だがそのどこにも、ヨハンの姿はなかった。
(……やはり、もう遠くに行ってしまったのか?)
もしそうだとすれば、彼はどうなるのだろう。 テンマが警察に届けたとして、再びいなくなったヨハンを見つけたとき、政府や国は彼を生かしておくだろうか。
テンマは悪い考えをかき消すように、天を仰いだ。空からは相変わらずひっきりなしに、雨が降り注いでいる。
「そうだ」
ふと、探していない場所が一つあるのを思い出した。
(……そんな都合が良いことが、あるだろうか)
そうあってほしい、という願望に近い考えだった。
(だが、もしかしたら)
走り回って今にも崩れ落ちそうな足を、奮い立たせるため、両腿をバシバシと叩く。
身体は冷たい空気を随分と吸い込んで、今にも凍り付きそうなほどに寒かった。それに靴下も履かずに飛び出してきたせいで、靴の中は随分と酷いことになっている。
しかし今はそんなことよりも、ヨハンを見つけることが先決だ。
「どうか、いてくれよ」
テンマはそう呟くと、再び走り出した。
その方角は、ヨハンと暮らしたあのアパートだった。
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