郷愁 - 1/2

子供のころ、自宅に1枚の風景画があった。
西洋の湖畔を描いた油絵は、色使いも素朴でどちらかといえば地味なものだ。
この絵は高名な画家の初期作品の一つで、父がインドに駐留していた頃、わざわざ取り寄せて母に贈ったものだったそうだ。
小さな湖と小屋、それを縁取る形で生える針葉樹の林、そしてその奥に見えるなだらかな山にはうっすらと雪が積もっており、空や雲も柔らかなタッチで描かれていたことを覚えている。
幼いロードにとっては、実際には訪れたことも見たこともない異国の景色だった。
母の手によって大事そうに客間の目立つ場所にかけてあったが、ロードはこの絵のことが嫌いだった。
思想も何も感じさせない、作者が目に映る風景をそのまま描いたであろう平凡なものだった。
しかし、この絵が目に入るたび、自分たち親子を置いて遠い異国へ帰ってしまった父を思い出し、ロードの心はいつも治りかけの傷をわざわざ爪の先で撫でられるような、ざらついた気持ちになるのだった。

* * *

「ロード!」
バカでかい声で名前を呼ばれて、はたと目が覚めた。
寝起きなのであまり視界がハッキリしていないが、風を受けた枝や葉がざわざわとぶつかり合う音がする。
どうも自分は木に寄りかかったままうたた寝していたらしい。
声のした方を見上げると、リックが「なんでこんなめんどくさいことをしなくてはならないんだ」とでも言いたげな顔で仁王立ちしていた。
「……なんだ?」
「なんだじゃねーよ。なんか司令官がお前に用があるって言うからわざわざ探しに来てやったんだぞ」
「別に頼んでない」
「ほんっっっと〜に愛想ないよなあ、お前」
リックはやれやれという風にため息をついて踵を返したが、背後のロードがそのまま立ち上がる気配を見せないので首を傾げる。
「あれ?行かねーの?」
「……もう少ししたらな」
ロードの返事を聞いて、リックは目を丸くし、興味ありげに再び近寄ってくる。
「へー。なんか珍しいじゃん」
「悪いがどこかの誰かさんと違って疲れてるんだ」
「まあ俺よりジジイだしな。早めに引退してくれてたほうが次世代のためにもいいと思うぞ」
「……ジジイじゃないし、引退もしない」
顔を顰めたロードを見て、リックは愉快そうにワハハと笑い、そのまま隣に腰を下ろした。

今日は出撃のある日ではなかった。しかし編隊の指揮官ともなると、オフの日でもやりたくもない事務仕事をこなさなければならない。
しばらくの間は粛々と書類仕事を片付けていたロードだったが、根を詰めすぎたせいかだんだん鬱々とした気分になってきた。
このままだとストレスでおかしくなりそうだったので、キリのいいところで散歩に出かけることにした。バーで軽く食事をとり、格納庫で愛機であるキャメルの整備の様子を確認する。
整備に問題がないことを確認した後は、読みかけの本を片手にそのまま基地周辺をうろうろと歩き回った。
この辺りはだだっ広い野原なので、木陰を探すのにも一苦労だったが、ようやくちょうど良さげな木陰を見つけた。
腰を下ろして、遠くに基地の連中の騒ぐ声を聞きながら本を読み始め……というところで、どうやら眠りに落ちてしまったらしい。
日の高さからして、眠っていた時間はそれほど長くはないと思うが、なんだか損をした気分になってしまった。
せめて一服でもしようとタバコを取り出したが、どうやら火を忘れたようだ。
ロードは軽く舌打ちをして、隣に座っているリックに視線を向けた。彼は緊張感のきの字もない顔でぼんやりと空を見上げている。
ダメ元で火を持っていないかを聞くつもりだったが、この様子だとまず持っていないだろう。
ロードは毒気を抜かれた気分になり、ため息をついてタバコをそのままポケットにしまう。

そのまま会話をするわけでもなく2人とも黙りこくっていたので、今この場所は喧騒などとは無縁の場所と化している。
いつも顔を合わせれば罵り合いばかりしているが、今は何となく気分ではなかった。
「なんか、戦争中なんて思えないよなあ」
ふと、リックが気の抜けた声で呟いた。声色はそのうち歌でも歌いしそうである。
「そうだな」
実際、目の前に広がっている光景は嘘みたいに牧歌的だ。
野原には穏やかな風が吹いていて、遠くでは銃声ではなく、鳥たちの戯れる声がする。
ここから地続きの場所で、今この瞬間にも地獄のような塹壕戦が繰り広げられているとはとても思えない。
ふと、なんだかあの絵のようだ、という妙に懐かしい気持ちに駆られた。
もちろん、この辺りには湖があるわけではない。ヨーロッパ特有の、湿度の低い空気がそう思わせるのだろうか。
あそこに描かれたものは自分にとっては故郷でもなんでもない。郷愁にも似たような気持ちを感じるのもおかしな話だ。
10歳の時にインドを離れてからは、母が亡くなった時に一度帰ったきりなので、今でも絵があの家にあるのかどうかはわからない。
それに父があの絵を母へ贈ったのは、置き去りにしなければならない自分たち親子への餞別として送ったのでは無いかとロードは考えていた。
万が一生活に立ち行かなくなることがあっても、ああいった美術品を売り払うことで多少は生活の足しになるだろう、と。
しかしそれは所詮想像でしかなく、父にどのような意図があったのか未だ確かめたことはない。子供だとは思うが、そうでもしないととてもじゃないがやり切れないことばかりだったからだ。
それは窮屈に思えた地上から逃げ出したくて空を飛ぶことに憧れた、幼い自分への憐れみなのかもしれない。

* * *

それからしばらく経っても、リックはほとんど瞬きもせずに空を見上げていた。こちらには見向きもしないので、ほぼロードの存在は忘れているだろう。
普段は人の話を聞かない猪突猛進バカヒヨコだとは思っているが、こいつの好きなものに対してひたむきなところは羨ましいと思う。
一瞬、ごおと強い風が吹いた。リックの明るい茶色の髪が好き勝手な方向に乱れ、そのあたりに落ちている落ち葉がカサカサと音を立てて舞う。その様子は、やけにゆっくりとしたものに思えた。
「……まあ、あの頃はこんなアホ面なやつはいなかったな」
ロードが思わずポツリと呟くと、アホという言葉にリックが耳聡く反応して勢いよく振り向いた。
「はあ!?誰がアホだって!?」
その動きがあまりにも素早かったのでロードは思わず笑いそうになったが、どうにか堪えて立ち上がる。こいつの前で吹き出そうものなら2週間は笑のネタにされるだろう。
「……そろそろ行くか」
「おいコラ!人をアホ呼ばわりしたのをスルーしてんじゃねえよ!」
キャンキャンと吠えるリックを無視して、ロードは宿舎へ足を向けた。

もし、自分がこの戦争を無事に生き残ったら何年後かに今日の景色を思い出すことがあるだろうか。
——あの辛気臭い絵よりはずっと良いかもしれないな、などとらしくない考えが頭をよぎった。

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