冷たい空気に身震いして重たい瞼を開けると、部屋の中が随分と暗くなっていた。
緩慢とした動作でふたつ並んだベットの間にかけられた時計に目をやれば、午後8時を回ろうとしている。
確かここに着いた時はまだ真昼間だった。大体5時間くらい爆睡していたようだ。
「げー……」
リックは思わず顔をしかめる。
体力には自信がある方だったが、思っていたよりも疲れていたらしい。
長時間の移動で疲れ切っており、ようやく休めると安心してベッドに寝転んだあとからの記憶が全くない。
うっすらとした罪悪感を覚えて体を起こしたところで、はたと気がついた。
自分にかけられているのものを毛布か何かだと思っていたのだが、よく見ると男物のコートだった。
ひと回り大きいサイズであったし、鼻を掠めるタバコの匂い。おそらく、というか確実にロードのものだ。
それに気がつくと、何やらよく分からない感情がリックの頭の中を駆け巡る。
気恥ずかしくなってコートの持ち主に突き返してやろうとキョロキョロと思い辺りを見回すが、室内にロードの姿は見当たらなかった。
一瞬首を傾げたが、ふたつ並んだベッドの先にある、大きな窓が中途半端に開いているのに気がついた。
確か外から見た時にこの宿にはバルコニーがあったのが見えたので、おそらくそこに繋がっているのだろう。
リックは起き上がり、ベッドの横に脱ぎ捨てた靴を履いて窓へと近づいた。
* * *
バルコニーに出ると、ロードが柵にもたれる形で宿の外に広がる景色を眺めていた。口には火がついたタバコを咥えていて、暗闇の中でその火がやけに明るく見える。
ロードが佇む傍には小さなミニテーブルがあって、そこに灰皿でもあるのだろうか。あまりよく見えないが、随分とくつろいでいる様子なので何本かのタバコは消費されているに違いない。
「なんだ、起きたのか」
ロードは物音でリックが起きたことに気がついたようで、こちらに顔を向けないまま声をかける。
「……起きてちゃ悪いのかよ」
「別に。まあおれとしては明日の朝まで寝てくれていた方が静かでよかったんだが」
「ったく……うるせーお貴族様だな。ていうかほら、これ。ん。」
リックはロードに向かってぶっきらぼうにコートを差し出す。
ロードのこう言った物言いにはもはや慣れたものだが、あからさまに残念そうな声音で言われるとやはりムッとする。珍しく礼のひとつでも言ってやろうと思っていたのに、本人がこの態度だと途端に感謝の気持ちが激減してしまい、この様な態度しか取れなくなってしまうのだった。
「ああ、それか」
ロードはつぶやくが、コートを受け取るような素振りは見せなかった。
「別に今は必要ない。邪魔だからお前が持ってろ」
「はあ?」
おれはお前の召使いじゃないんですけど、と悪態つきそうになったが、びゅうとひとつ強い風が吹いた途端その考えは変わった。海沿いの風は、それだけで皮膚を切り裂くのではないかというほどに冷たく、痛い。
リックはいそいそとコートを羽織り直した。袖を通すのは本人の前では流石に恥ずかしくて無理だった。
「お前こんなとこで何してんだよ。部屋に風が吹き込んでさみいんですけど」
「……ついさっきまで爆睡していただろうが」
「うるせーよ!つかそんなところにもたれてたら落っこちちまうぞ」
「……それもいいかもな」
「なっ……ふ、ふん!着地でもできるってのか?すげーなそりゃ」
そのままいつも通り憎まれ口の応酬になるかと思っていたのだが、ロードはふんと鼻で笑ってそのまま黙りこみ、またバルコニーの外に視線を戻してしまう。これにはリックも拍子抜けした。
……どうにも妙な雰囲気だった。
リックは沈黙に耐えられなくなり、ロードの隣に立って同じ方向に目を向けた。
この付近にはフランスからイギリスに渡るための船が出ている港がある。
2人もその港からロードの実家に向けて出発する予定だったのだが、レイストン家から手配された乗船券の時間が明日の朝になっていたため、強制的にロードと宿で一泊をすることになった。
本来であれば、フランスからイギリスまで渡航するのはそんなに時間がかかるものでもない。
しかし、今は彼らと同じようにイギリスへの帰還兵が大勢いる。その辺りの事情を踏まえるとさすがに伯爵家の名を使っても難しい部分があったのだろう。
ロードと同じ部屋で寝るなど普段ならありえないことだが今回ばかりは仕方がない。多少ボロいとは言え、比較的まともな宿にありつけただけでマシというものだ。おそらく今夜は酒場で一夜を過ごすという帰還兵も多くいるだろう。下手したら野宿かもしれない。
リックはロードと野宿する様子を想像して若干身震いした。
港という場所で人が集まりやすい特性上、社交場がいくつもあるのか暗闇の中に灯りがポツポツと見えた。
それらの明かりがプツリと途切れ、そこから先は暗闇になっている場所がある。おそらくそこから海が広がっているのだろう。ここからだと波の音が聞こえないので、なんとなくその光景が不気味に思えてしまう。
ここにくる途中にも、イギリスへ向かうであろう大勢の兵士を多く見かけた。中には、五体満足のものもいれば明らかに腕や脚を失っているものなどさまざまだった。
今まで戦争はそういうものだから、とあまり考えないようにしていたが、本来であれば故郷で家業を継いで平凡に暮らしていた者たちかもしれない人々だ。それを考えると、胸の奥がちくりと刺されたような気持ちになった。
少し気分が暗くなってしまったので気を紛らわせようと、隣に佇む男を見やる。
相変わらず表情は見えないが、目が慣れてきたのかロードの形の良い横顔の線はうっすら見てとれた。思わず声をかける。
「なあ、ロード」
「なんだ」
「お前さ、今日なんか変じゃねえ?」
「はあ?」
ロードはアホらしい、と言った声音で「なぜそう思う」と聞き返してきた。
「うまく言えねえけど、ずっと黙りこくってるから腹でも痛えのかと思って」
「おれが普段からおしゃべりだったことがあるか?」
「嫌味はめちゃくちゃ言うだろ」
「うるさい」
内容に多少問題があるものの、いつも以上に口数が少ないのはやはり図星なようだった。
「……実家のことを考えていただけだ」
「……そっか」
ロードの実家。イギリスの由緒あるライナム伯爵家。以前、ブドウ畑に不時着した際に見た一葉の写真が思い出される。
金髪碧眼の家族のなかで、1人だけ黒髪でアジアの血を思わせる顔立ちをしたロードの姿は、印象に残っている。(もちろん超絶美少女のシャーロットもだが)
「やっぱり、帰りたくねえ?」
「……貴様、散々煽っておいてそれを言うのか」
「う。だって……」
ロードの鋭い視線(多分)にリックは思わず閉口した。
終戦時、レイストン家の令嬢たちから招待の手紙をもらった際にロードを散々煽って実家に帰るように仕向けたのは事実である。
ただ、こうも黙りこくられてしまうと、そんなに実家に対して嫌な思い出でもあるのかとか、ロードと実家が決定的に仲違いするきっかけを作ってしまったのではないか、と不安になってしまう。リック自身も何故ロードの心の機微をこんなに気にしているのかが分からなかったし、言語化できないのがもどかしい。
今頃地獄で悪魔とよろしくやっているだろうあのロシア人なら、気の利いた一言でも言えるのかもしれないが、リックにはそれがひどく難しかった。
次の言葉を紡げずにいると、ロードが先に口を開いた。
「……貴様、もしかして気を遣っているのか?」
呆れたような物言いに、リックは思わず赤面する。
「なっ。あ、当たり前だろ!!お前んちが色々あるのはなんとなく知ってるし、おれも一応友人として招かれるわけだし……」
リックが困った表情でしどろもどろになって言い訳をしていると、ロードが耐えきれず吹き出した。普段と違ってしおらしい様子のリックがツボに入ったらしい。流石に声は上げなかったが、口元を覆って肩を震わせている。
「だー!!もー!!笑うなよバカ!!こっちはすげえ真剣だったんだぞ!!」
「……貴様に気を遣われるとは、おれも堕ちたもんだな」
ロードはひとしきり笑ったあとそう続ける。
「別に帰ってそうそう親子喧嘩だのなんだのするつもりもない。貴様の幼馴染とやらも怒らせると面倒そうだからな。適当にうまくやるさ」
「……そうかよ」
「そうだ。だから貴様もらしくない気なんか使うな。頭を使いすぎて知恵熱を出すぞ」 随分と酷い言いようだが、いつものロードだ。
その声音に、最初に感じた妙な雰囲気はなかったのでリックは少し安心した。
「ったく、心配して損したぜ」
リックは大袈裟にため息を吐いて空を仰ぐ。
「つか、おれ何にも食ってねえから腹減ったんだけど。近くの酒場でもいかねえ?」
リックの提案にロードは嘆息して、タバコを灰皿に押し付けてからもたれていた柵から体を離した。
「別にいいが、飲みすぎて羽目を外すなよ」
酒場で寝たりしたらその場に置いていく、と念を押された。
リックもわかった、と頷く。そこではたと思い出す。
「わりい、コート返す」
リックは今度こそと羽織っていたコートを差し出した。
ロードもそれを受け取る。
「……貴様、もしかして子供体温か?」
「いちいちそういうこと言うな!!エロオヤジかっての!!……ほら、さっさといこうぜ」
ロードの背中をぐいぐいと押して部屋に押し込む。
その時ふと、リックは何かに吸い寄せられるかのようにバルコニーの外に目をやる。
昼間とは違って、深く暗い空。この辺りは地上が明るいので、星はちらほらとしか見えないのが少し残念だ。そういえば、ロードの髪と目もこんな深い色をしている。本人には口が裂けても言えないが、その色がリックは嫌いじゃなかった。
自分らしくない詩的な考えに、思わず顔が熱くなる。風の冷たさも、今はあまり感じないほどだ。
リックは心底、今が暗闇でよかったと思った。
* * *
時計の音と、呼吸音だけが部屋の中に響く。ロードは蝋燭の灯りに照らされた部屋の中で、ベッドに腰掛けてぼんやりとリックの寝顔を見下ろしていた。
あの後、酒場で食事を済ませた後リックは案の定酒が入ってハイテンションになってしまい、他の客と散々はしゃいだ後その場で寝落ちてしまった。置いていく、とは言ったものの実際にそれをやるとロードの義姉に背負い投げでもされそうなので渋々担いで帰ってきた。
普段はキャンキャンとうるさくロードに絡んでくるリックだが、こうやって寝ている姿はまだまだ幼さを残した顔つきなので、普段の様子も年相応な気がしてくる。基地に来た当初は随分とガキくさいやつが来たな、と思っていたものだ。
しかし戦争で色々な経験をするにつれ、少しだけ表情が以前よりも変わった気がする。最も、ロードがそうあって欲しいと願っているだけかもしれないが。
今日は、リックがあんなことを言うとは思っていなかった。
実家に帰ることで、過去のいざこざを思い出して若干ナイーブになっていたのは事実だったし、実際に口数も少なかったと思う。しかしそれをリックが指摘してくるとは意外だった。シャーロットに会えることで舞い上がっているばかりだと思っていたが、どうもこちらのことは良く見ていたらしい。
「……生意気なやつ」
ロードはリックの頭の横に手をつき、反対側の指の背で頬をそっと撫でる。ギシリとベッドのスプリングが軋む音がした。酒が入っているせいもあるだろうが、随分と温い。
リックは熟睡しており、ロードの行為によって目を覚ます様子はなかった。
随分と安心しきっている。
「本当に子どもみたいだな」
ロードは苦笑して指を離した。
これ以上は妙な気分になりそうなので、やめておこう。顔をあげれば、時刻は12時を回るところだった。
「……寝るか」
ロードは立ち上がって、少し伸びをする。
カーテンの外を見れば、まだ外は深く、暗い闇が広がっている。夜はまだ明けそうもない。
ただ、それを見つめるその瞳の色は、やけに穏やかだった。
10数年ぶりにまともに二次創作小説を書きました。
色々感覚忘れててむずかし〜!!でも楽しかったので今後も練習がてら短めのやつを上げたいです。
22.07.24記
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます