波音に消える

 遠い異国の街を、直に手を引かれて歩いていた。
 細い路地裏に入り込んでしまったせいか、昼間にも関わらず、先ほどから誰ともすれ違わない。
 常は自分の手を引いて、半歩ほど先を歩いている直の背中を見つめた。
 先ほどからこちらを振り向かず、黙ったまま歩き続けている。いつもと同じような光景のはずなのに、常はそれがとても怖い事のように感じられた。
「ねえ、直」
 常の呼ぶ声に、直は返事をしなかった。
 ああ、また自分が怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。 常は足下に視線を落とす。石畳で舗装されたこの道は、2人の足音がやけに大きく響いているような気がした。
「直」
 もう一度名前を呼ぶ。だが反応はない。
 やっぱり、怒っているのだ。常は繋いだ手をぎゅっと握りしめた。
 兄がこんな態度を示すのは、きっと原因は自分にある。
 直よりもずっと劣っているのに、義母に気に入られているからと理由で、大人達の目にかけられている自分。直からしたら心底鬱陶しい存在に決まっている。
 今まで態度に出さなかったのはきっと、直が優しいからだ。
 それに気づけずに、兄の後をついて回って、毎回のように泣き出してはこうやって愛想を尽かされている。これは当然の結果なのだ。
 常は落とした視線をまた直の背中に戻す。陽光に照らされた背中が、やけにまぶしい。
「……ごめんなさい」
 思わず口を出た言葉は謝罪だった。

 直は、やはり何も答えなかった。

***

「常、起きろ」
 直の声とともに、肩を揺さぶられる感覚で目が覚める。常が重い瞼を擦りつつ目を開けると、隣で寝ていたはずの直が寝台の脇にしゃがみ、こちらを覗きこんでいた。
「なおし?」
 常はあまり状況が理解できていないまま、ゆっくりと起き上がった。汗で寝間着がじっとりと張り付くような感触がして、思わず身震いをする。なんだか、とても嫌な夢を見ていたようだ。
 上半身を起こした状態で、ぼんやりと室内を見渡した。ここは異国の地へ向かう船の一室だ。天井には素っ気ない見た目の明かりがあるが、今はそれは消えている。そのおかげが室内はずいぶんと暗い。
 寝台の奥には海に面した窓があるため、外のようすがが確認できるがそちらも同じく真っ暗だった。途切れることのない波音が、ざあざあと聞こえている。
「何か、あったんですか?」
「まだ何も」
 暗闇の中でも、直がいたずらっぽく笑ったのがわかった。状況が飲み込めなくて周囲を見回していたせいか、少し暗闇に目が慣れてきたようだ。
「だけど、今から起きるかもな」
 よくわからない兄の主張に、常は首を傾げた。
「今から?」
「そうだ」
 それってどういう、と言いかけて常は直の格好にはたと気づく。よくよく見れば、直は寝間着の上から上着をゆるく羽織っている。それだけならば良いのだが、足もとにはちゃっかり靴を履いていた。明らかに、これから眠る人間の格好ではない。
 常はどうにか見ないフリをして、どうか違っていてほしいと祈りながら直に問いかけた。
「直、まさか部屋の外に出るつもりじゃ」
「もちろん、そのまさかだ」
 直が珍しく弾んだ声音で答える。常は思わず、両手で顔を覆った。


***

 ごうごうと大きな機械音が鳴り響く中、常と直は手を繋いで船内の廊下を歩いていた。もちろん、大人にバレてはいけないので、歩幅は小さく慎重にだ。
「とりあえず廊下の端まで行ってみよう」
 直は深夜の脱走で感情が昂ぶっているのか、弾み気味の調子で言った。
「でも、途中でバレるかも。見回りの人とか」
 一方で常の声は沈んでいる。こんな深夜に船室をい抜け出して、無断で歩き回っているのだから当たり前だ
「そんなこと気にしてるのか?そのときは、厠にでも行こうとしたら迷ったとでも言えばいいだろ」
 直は悪びれる様子もなく答えた。
 今の発言を乳母が聞いたら、おそらく怒り狂うに違いない。
 思い返せば、最近の直はやけに大人しく、乳母の言うことにも逆らわないことが多かった。おかげで以前のように、寝るときまで監視されているような事もほぼ無くなったので、常も少し安心していたのだ。そんな矢先にこれである。
 こういうときの直はやたらと堂々としているので、始末に負えない。このまま常が船室に戻っても気にせずに船内を徘徊しそうな勢いだ。
 ――せめてそれだけは阻止しなければならない。常は妙な使命感に駆られて、繋いだ手にますます力を込めた。
「端っこまで行ったら、どうするんですか?」
「ん、それはあんまり考えてなかったな」
「……」
 常は小さくため息をついた。正直なところ、予想はしていた答えだった。だが実際に本人から聞かされると脱力してしまう。 
 これはもう、共犯者として最後まで付き合うしかなさそうだ。

 それからしばらくして、2人はどうにか廊下の一番端だと思われる場所にたどり着いた。実際には部屋を出てからほんの数分しか経っていないだろうが、常にとってはすごく長い時間のように感じられた。
 自分たちの目の前には、自分たちの数倍もある大きさの鉄扉がどっしりと立ち塞がっている。
「この先は甲板か」
 直は扉をしげしげと眺めながら呟いた。と、思った次の瞬間おもむろに扉の取っ手に手をかける。
「直!?」
 驚いて常は声を上げたが、そんな弟には目もくれず、直はガチャガチャと数回、取っ手を動かしてみる。しかし扉が開く様子はない。直は心底残念そうに舌打ちをして、ようやく扉から手を離した。
「開かないな」
「よ、よかった……」 
 常は泣きそうになりながら膝から崩れ落ちた。
 もし扉が開いて、子ども2人だけで甲板に出ようものなら、今度こそ大人達に見つかるだろう。もし見つからなくても、万が一海にでも落ちようものなら。常は最悪の事態を想像して、寒気がした。
 常は勝手にこみ上げてくる涙を堪えながら、直の服の裾を握りしめ、声を振り絞る。
「ねえ、直」
「なんだ?」
「部屋に、戻りましょう」
「……そうだな」
 直は扉を見つめたまま答えた。自分がしゃがみこんでしまったせいか、結局こみ上げてきた涙で視界が歪んでいるからか。兄の表情は、あまり見えなかった。

***

「それにしても、意外とバレなかったな」
 直の上機嫌な声に、常は苦笑した。
「……そうだと良いんですけれど」
 あの後2人は部屋まで戻ってきたが、眠る気にはなれなかった。いつもならとっくに眠りについている時間に歩き回ったせいで、すっかり目が冴えてしまったのだ。窓辺に並んだ状態で、窓の外を眺めながら他愛のない会話をする。
 空には暗闇にはさみで切り取ったような、くっきりとした輪郭の白い月が浮かんでいる。月が明るすぎるせいか、星はあまり見えない。だが海面に月明かりが反射して、細かい光が無作為に生み出されている。その光が、まるで星の代わりをしているかのようだった。
 日本を出てしばらく経ち、海も見慣れたものだと思っていた。しかしそれは昼間の姿だけで、夜になるとまた様子が違っていることが、今になってわかる。常にとっては、それがとても新鮮なことのように思えた。そんなことを考えながら、常は口を開いた。
「ねえ、直」
「なんだ?」
「直は、外に出たかった?」
「さて、どうだろうな」
 気だるげに頬杖をついて、外を眺めながら直はそう言った。
「興味が無かったといえば嘘になるが、扉の鍵が開いてなかったんだ。あれ以上どうしようもないだろう」
「だけど、あれがもし開いてたら?」
 常の予想外の質問に、直はこちらを振り向き、少し驚いたような顔をした。なんでこんな事を聞いたのか、常自身にもよくわからない。
「なんだ、今日はしつこいな」
 言葉とは裏腹に、直はにやりと笑う。その声はなぜか少し嬉しそうだった。
 視線を窓の外に戻して、しばらく考える素振りを見せた後、口を開く。

「おまえが嫌がるなら、行かない」

 直は一言、そう告げた。そんな直の言葉に、常は思わず顔を伏せる。
(――きっと、今の言葉は直の本心じゃない)
 常はそう直感したのだった。
 直はいつも、ぶっきらぼうに振る舞っている。だがその実、常が本当に傷つくような言葉は絶対に言ったことがない。今回だってきっとそうだ。
 自分を置いてでも外に行く、とでも言えば常はきっといつものように、泣き出してしまいそうになるから。直は弟が望んでいるであろう言葉を選んでいるのだ。常は自分の勝手な都合で、兄の本心を無理矢理ねじ曲げたような気がして、顔をまっすぐに見つめることができない。自分はなんて愚かなのだろう。
「ごめんなさい」
 咄嗟にでた言葉は、謝罪だった。視線を落としたままなので、直の顔は見えない。しかしその直後、直の怪訝そうな顔が降ってきた。
「なんで謝るんだ」
「だって」
 その先の言葉は、紡げなかった。直がため息をつく。
「おまえ、大事なことを忘れてないか?」
「えっ」
 思わず顔を上げて兄の顔を見ると、なんだかばつの悪そうな表情をしている。
「そもそも、おまえを起こしたのは誰だ」
「それは……」
 間違いなく、直である。
「それに、おれは今日抜け出すことはおまえに言ってない。完全に不意打ちだ」
「はあ」
「……何であんまりピンと来てないんだ?まあいい。とにかく、おれの都合でこんな夜中におまえを無理矢理起こして、無理矢理散歩に付き合わせたんだ。だったら、どこかでおまえの意見は聞いてやるというのが道理だろう」
 直は一気にまくし立てる。その意見は理にかなっているような、そうでも無いような。
「そういうものですか」
「そういうものだ。だからいいか常」
 直は急に真剣な表情になると、常の両肩に手を添えた。そのままこちらをじっと見据えて、言う。
「おれに、あんまり謝るんじゃないぞ」
 直の言葉に、常の心臓はどきりと跳ねる。きっと直の言葉が指しているのは、先ほどのことだけじゃない。ふだん、家にいるときからそうしろ、と暗に言っているのだ。しかしそれが常にとって、どれほど難しいことなのかを、きっと直は知らない。
 再び黙り込んでしまった常に痺れを切らしたのか、直はおもむろに常の頭に手を伸ばした。そしてそのまま、わしゃわしゃと思い切り両手でなで回し始める。
 突然のことに、常はうわあと声を上げる。弱々しくも抵抗を試みたが、悲しいことにこの年齢で既に発生している体格差の前は無意味だった。
「よし、今日はもう寝るぞ」
「……はい」
 ひとしきりなで回したあと、満足したのか直は手を止めて言った。常は混乱しながらも、どうにか返事をする。思う存分なで回された頭は、髪の毛がぐしゃぐしゃになってしまっていた。このまま寝たら寝癖も追加されて大変なことになるだろうが、もうどうでも良くなってきた。
 常はそのまま、直に手を引かれ、一緒に布団に潜り込む。
 2人で布団を頭から被ってようやく、常は拗ねたようにつぶやいた。
「……直のいじわる」
 それを聞いた直は声をあげて笑う。布団の中は外よりもずっと暗いのに、兄の笑顔が見えるような気がした。
きっと今日はもう、嫌な夢は見ないだろう。

.end


東亰の二次創作を初めてウン年、ようやく書いた小説です。
2人とも要人の子どもなのでこんなにセキュリティは甘くなと思いますが、2人で夜のお散歩って可愛いよね〜と(倫理観の欠如)というノリで書いたものなので多めに見てください……。

23.12.02記


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