猫は猫


「先生は犬に似てるね」
 ヨハンが突然そんなことを言い出した。
 テンマが読んでいた本から顔を上げると、彼はソファに座ってテレビを眺めていた。ソファはリビングのテーブルに対して、背中を向ける形に設置してあるのでその表情は分からない。背もたれに体重を預けている様子からすると、随分とリラックスしているように見える。
 画面上では、10歳ほどの女の子と白い大型犬が楽しそうに戯れている映像が映し出されていた。彼の思考回路はよく分からないが、この映像を観て連想したらしいことは確かだ。
「どうしたんだい、急に」
「なんとなく。でも犬か猫かでいったら、犬だと思うよ」
「……なぜ?」
 テンマの問いに、ヨハンは振り返って、暫し考える素振りを見せた。
「表情がよく変わるところとか、嘘がつけないところとか」
 ヨハンは指を折って数える仕草をしつつ、続ける。
「髪の毛の量が多くて、ブラッシングしないとボサボサになるところとかも大型犬みたいだよね。あとは……」
 ヨハンはテンマが寝癖で髪の毛が爆発していた姿でも思い出したのか、少し肩を揺らした。テンマはヨハン達欧米人とは違い、髪質が硬く毛量も多いので時々そんなことになるのだ。気恥ずかしくなって誤魔化すように思わず声をかけた。
「あとは、なんだい?」
「後は、そうだな……すぐに人を信じ過ぎるところかな」
 何の気なしに彼は言う。それを聞いたテンマは苦笑する。正直耳が痛かった。
「……あいにく、それで後悔したことはないかな」
「本当にいい人ですね。あなたは」
 テンマの表情を見たヨハンはどこか不満げな様子だった。あまり納得がいっていないらしい。
 そして自嘲気味に笑いながら続けた。青い瞳がすっと細められる。
  
「そんなことだから騙されるんだよ。僕みたいな怪物にね」

 ***

 ヨハンとそんな会話をしたことすらも忘れかけた頃、彼らは路地裏を並んで歩いていた。
 彼らは週に1回程度、こうやって日用品の買い出しに出かける。それは単純に2人で運ぶと効率が良いからでもあるが、普段家に籠もりがちなヨハンに外の空気を吸わせる良い機会だとテンマは考えていた。
 今、それぞれの手には買い込んだ日用品が詰まった紙袋が1つずつ収まっている。まとまった量を買い込んだお陰で、随分と大きな荷物になってしまった。
「今日は少し買いすぎたなあ」
「いろいろ安くなってましたからね。仕方ないです」
 思わずぼやくテンマを尻目に、ヨハンは涼しい顔をして言った。
 普段きっちりした服装をしているので誤魔化されているが、自分より遙かに華奢な体つきをしているヨハンにそれを言われるとなんだか情けない。
「……若さかな」
「なんの話?」
 ヨハンは訝しげな視線をテンマに向けた。
 テンマがハハハと乾いた笑いを漏らしていると、突然目の前の通りを猫が横切っていった。
 茶色い縞模様で毛並みで、緑色の目が印象的な猫だった。一瞬だったが、鈴の付いた首輪もしていた気がする。毛艶も随分と良かったので、この辺りの住人の猫だろうか。
「そういえば、前にヨハンが私を犬に似てるとか言ってたね」
 テンマはそのときの事を思い出した。あのときはヨハンの言葉でなんだか気まずい空気になったような気がするが、就寝前だったせいもあり細かい部分の記憶は朧気である。
「……それがどうしたの?」
 ヨハンの反応は、覚えているのかいないのか、どっちつかずな反応だ。
「いや、私が犬ならヨハンは猫に似ているなと思って」
「猫って、なぜ?」
 ヨハンは不思議そうに首を傾げた。
「なぜって、そうだな」
 テンマは歩を進めながら考えを巡らせた。思い当たる節はいろいろとある。
 例えば、相手を翻弄する気まぐれな性格や、懐いた人間にはとことん隙を見せる部分とか。見た目に言及するなら緩く波打つ金髪や、冷たい水面を思わせる青い瞳も、映画などで富豪の膝に座っている毛の長い猫を想像させた。
「うーん、気まぐれなところとか、見た目の雰囲気かな……」
 迷った挙げ句、それだけを答えた。
 ほかにも高い場所を好んだり、警戒心が人一倍強いところも猫のようだ、とは思う。しかしそのことはあえて言及しないことにした。おそらくその性質は、ヨハンが望むべくしてなったものでは無いから。
「……いうほど、似ていないと思うけどな」
 少し拗ねたようなヨハンの声がした。その声は、先ほどよりも離れた場所から聞こえた。
 テンマが咄嗟に振り返ると、彼は少し後ろで立ち止まっていた。物思いにふけっていたせいで全く気づくことができなかった。
「ヨハン?」
 ヨハンはじっとこちらに視線を投げかけたまま、顔色一つ変えない。しかし何か言いたそうな雰囲気だけは感じ取れた。
 ヨハンはいつも、自分が本当にどうしたいかをあまり表現することがない。
 なのでこういったとき、どう声をかけて良いのかテンマはいつも戸惑ってしまう。相手は二回り近くも年の離れた青年だというのに。そんなテンマの心中を察したのか否か、ヨハンは口角をうっすらと上げる。
「猫といえば、先生はこんな話を知ってる?」
「なんだい」
「猫は、死ぬ間際に飼い主の前から姿を消してしまうらしいよ」
「……」
「もし僕が猫だとして、あなたの前か消えるときはそういうことなのかもしれないね」
 そう続けると、ヨハンは珍しくにっこりと笑った。
 その微笑みは美しく、まるで絵画か何かのようだった。しかしテンマの目には、それが随分と悲しいものに映った。
(なんて顔で笑うんだ)

 ――術後の経過観察を兼ねた監視。
 そんな名目で、ヨハンと一緒に生活するようになってから知ったことだ。
 ヨハンは時折、このように相手を困らせるようなことを言って反応を伺うことがあった。テンマが彼の言葉にどのような返事をし、どういった態度をとるのか、試すのだ。
 警察病院を退院したヨハンは、嘘みたいに『普通に生活』をして過ごしている。
 規則正しい時間に寝起きして、病院での検査や、カウンセリングなどにも真面目に受けている。最初は不安ではあったものの、テンマが長期不在にしている間も、特に問題は起こしていないと聞いている。
 散々テンマや周囲を振り回していたあの頃のヨハンとは、まるで別人のようだった。
 確かに彼は随分と変わった。しかし時折、彼の過去がこうやって暗い影を落とし、周囲の心を暗くしてしまう。
 どうも本人には自覚があまりないらしく、何度か指摘しても不思議そうに「そんなつもりはないよ」と否定するばかりだった。
 テンマから見れば、ヨハンの行動は子どもがわざと手酷い悪戯を繰り返しているようでいつも胸が痛くなる。「……もしそうなったとしても、またどこまでも追いかけるよ」
 テンマの言葉に、ヨハンの瞳が2、3度瞬いた。
「それは本当?」
「本当だよ」
「僕が怪物じゃなくても?」
「関係ない」
「……やっぱり、先生は物好きだ」
  ヨハンは目を伏せる。少々面食らった様子だったが、声色には嬉しそうな色が滲んでいた。
 ――やはり、今回もそうだなのだ。
「ヨハン、変なことを言って悪かった。もう家に帰ろう」
 ヨハンはテンマの言葉に頷きつつ、
「先生は悪くないのに、どうして謝るの」
と反論した。
 テンマは上手く二の句を繋ぐことができなかったが、代わりにヨハンの荷物を持っていない方の手を引いて、ゆっくりと歩き出した。
「人に見られるよ」
「別に構わないさ。もう少しで家だし。この辺りは人通りも少ない」
 そうはいったものの、黒髪の東洋人と白人の若者の組み合わせは、あまり一般的とはいえない。しかも手を繋いで歩いているともなれば、少なくとも親子には見られないだろう。通行人に訝しげな視線を向けられることは想像に難くない。
 だがそれでも、今この瞬間に何処かにいなくなってしまいそうなヨハンを放っておくよりは、その方がよっぽど良い。
 ヨハンは抵抗することも、握られた手を握り返すこともないまま大人しく手を引かれて歩いていた。しばらくして無事に自宅の目の前までたどり着いたときには、テンマは内心ホッと胸を撫で下ろしたのだった。

 ***
 
 その日の夜、テンマが風呂から上がって自室のドアを開けると、ヨハンがテンマのベッドに腰掛けていた。視線は手に持っている本に向けられ、白い指先がゆっくりとページを捲っている。確か先日、病院の売店で買ったと話していた本だ。面白いかどうかを聞いたときに「別に、そこまで」と興味なさげに言っていたので、単純に暇つぶしの為に買っただけの代物らしい。
「……ヨハン」
 声をかけると、ヨハンは顔を上げて微笑んだ。
「なんだ。もう上がったの?思っていたよりも早くて残念だな」
 少しも残念がる様子のない口調で、持っていた本を投げ出してごろりとベッドの上に寝転がる。普段は面倒くさがって、「先生の後で良い」となかなか風呂に入ろうとしないくせに、今日はなぜか頑なに先に入ると主張していた。どうやらこの為だったらしい。
「……今日は持ち帰った仕事があるから、構ってあげられないよ」
「僕は構って欲しいなんて言ってませんよ」
 テンマの言葉に、ヨハンはいたずらっぽく笑う。上目遣いでこちらを見つめる瞳は、随分と挑発的だ。まるで本当は先生が僕を構いたいんじゃ無いの?とでも言いたげに。テンマはため息をついた。
「やっぱり猫みたいだよ、君は」
「……昼間も言ったけど、僕自身はそんなに似ていないと思うよ」
だって、とヨハンは続ける。
「僕は命のなくなるその瞬間まで、先生の目に焼き付けておいて欲しいもの」
「……またその話か」
 テンマは観念して、ヨハンの頭付近に腰掛けた。2人分の体重を受け止めたスプリングは、ギシリと大げさな音を立てる。
「なあヨハン」
 テンマは名を呼びながら、彼の頭に触れた。柔らかな髪の毛の感触がテンマの指先を包み込む。何度か梳いてやると、ヨハンは満足げに目を細めた。
「私は、猫がわざと飼い主の目の前から消えるというのは、人間の思い込みだと思っているんだよ」
「……どうして?」
「猫は、自分がいなくなった後の飼い主の気持ちなんて知らないからさ」
 何かの本で読んだんだ、とテンマは独りごちる。ヨハンはそれを黙って聞いていた。
「だけど君は違うだろう。君が姿を消したら、私がどういう気持ちになるのか、どうするのか、誰よりも分かるはずだ」
「……」
「だからあまり、そういう事を言わないでくれ」
 今は完全に傷が塞がり、触れるだけではよく分からないが、ヨハンの頭にはテンマがこの手で治療した際の傷跡がはっきりと残っている。
 2度目の手術をしたあの時の感情を、今でも忘れはしない。酷く傷つき、迷い、そして決断した。
 しかし今は、あのときの自分が間違った行動をしたとは今は思っていない。おそらくこれからもそうだろう
 ――彼の妹、ニナがそう言ったように。
「先生はやっぱり人が好すぎる。そんなことじゃいつかまた、足元を掬われるよ。僕みたいな……」
「ヨハン」
 テンマはあえてヨハンの声を遮った。その先の言葉は聞きたくないし、言わせたくなかった。
「君は人間だよ」
 テンマの言葉にヨハンの瞳が見開かれ、揺れたのが分かった。その様子を見たテンマは、わしゃわしゃと2,3回頭を掻き回してやり、立ち上がる。そして小さな子どもに言い聞かせるような口調で言った。
「私はこれから仕事をするけど、寝たかったらここで寝てもいい」
「……そうしたら先生が寝れない」
「そのときは、ソファにでも行くよ」
「どけって、言ってくれたらいいのに」 
 ヨハンは拗ねたような口調で言ったが、言葉とは裏腹にシーツを目深に被って背中を向けてしまった。
 しかしよくよく見れば、先ほどよりはベッドの端に寄っている。どうやらテンマが寝転がれるだけのスペースを確保してくれているらしい。思わず吹き出しそうになったが、どうにか堪えた。
 正直、成人男性2人が並んで眠るには、少し狭いだろうがまあたまには良いだろう。
(今度、少し大きなベッドにした方が良いか聞いてみるかな)
 そんな提案をしたら、ヨハンは一体どういう反応を見せるだろうか。また物好きだと言うだろうか。それとも嬉しがるのか。
 彼の反応を想像しながら、テンマは仕事机に向かう。
「おやすみ、ヨハン」
 ヨハンの背中に向けて声をかけるが返答はない。
 代わりに、穏やかな呼吸音が返ってくるばかりだった。


 end.


久しぶりにアニメと原作読み返したらうおおヨハン〜!!!!!ドクターと穏やかに暮らしてくれ…(泣)となったので。そして育て人間としての情緒。
ナチュラルに同棲しているのはそれっぽい理由をつけましたが、ただの幻覚ですので許してください。

24.04.28記

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